ガルパンで学ぶ歴史上の人物

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今回は左衛門佐(杉山清美)

https://girls-und-panzer.jp/chara/saemon/ より引用

所属校 大洗女子学園 カバさんチーム

ポジション 砲手

 

パネル設置店 江口又新堂

〒311-1301 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町718

029-267-3033

https://maps.app.goo.gl/mEywDtbJ65fMyPUA8

 

 左衛門佐は、戦国史を専門分野です。左衛門佐のモデルは真田幸村(本名は真田左衛門佐信繁。以下幸村で統一)から来ています。史実の幸村は、隻眼だったわけではないそうで、映画を見た影響で片眼を瞑った状態でストーリーは進んで行きます。

 

 

真田左衛門佐信繁とは?

 真田幸村(1567〜1615)

戦国BASARAの真田幸村

信長の野望シリーズの真田幸村

 

戦国BASARAでは熱い漢として、信長の野望シリーズ・戦国無双シリーズでは、ダーティな漢として登場しているのでご存知の方も多いと思います。

史実の真田幸村

信繁というのは、父(昌幸)の主君である武田信玄の弟である信繁にあやかって命名されました。武田信繁は、第4次川中島合戦の時に兄の信玄の陣を立て直すために時間を稼ぎ、壮絶な死を遂げました。その一連の活動を間近で見ていた昌幸(従軍していない説もあるが、合戦時は15歳と参戦できる年齢である)は、この時、息子にこの武勇にあやかって命名しようと考えていたのではないでしょうか。

 

 

彼の一生

 

幸村は、1567年に生まれます(伊達政宗と同じ年に生まれる)。→しかし、異説もあり。彼の幼少期のことについてはあまり史料に残されていませんが、長篠の戦い後(幸村の叔父が戦死したため父・昌幸が真田家を相続する)に父とともに岩櫃城に写ったとされています。また初陣に関しても、第一次上田合戦とも小田原城の戦いともいわれていて定かではありません。

 1585年に上杉家の人質として派遣され、元服して信繁として名乗っていること、家臣当然に扱われ、領地も貰っていることから、真田家(幸村)を重宝していた部分もあるだろうと推測できます。その後、徳川家康との第一次上田合戦後、豊臣秀吉の傘下に入った真田家は、上杉家にいた幸村を秀吉の下に送っています。幸村は馬廻衆の一人として活躍することとなります。上杉景勝・豊臣秀吉の薫陶を受けたことにより、将としての才覚を養ったことには間違いありません。

 

関ヶ原の戦いでは、石田三成率いる西軍に父・昌幸と共に所属し、徳川秀忠率いる徳川軍を足止めする戦績を残しています。(第二次上田合戦)ですが、幸村個人の活躍より父の昌幸の活躍が際立っていたので彼の名はそこまで轟きませんでした。昌幸の目的は秀忠軍の足止めであり、彼の軍を打ち破る必要がありませんでした。

 

ですが、関ヶ原の戦い本戦で石田方が敗北したことにより、死罪が決まりかけていました。しかし、幸村の兄である信之と信之の義父の徳川重臣である本多忠勝のもてなしで死罪は無くなり、和歌山県の九度山に蟄居謹慎に決定しました。そこで父の昌幸は1611年に病で亡くなりました。

 

 それから数年後の1614年〜15年に大坂の陣に勃発。そこからが幸村の本領発揮をする戦で最期の大戦となりました。

 まず、1614年の冬に勃発した大坂冬の陣では、京都を制圧してそこから積極的に徳川方との連絡路を断つ策を献策するも籠城策に決まり、大坂城の南側に真田丸を築き、攻撃してくる徳川方を迎え撃ち撃退しました。

 

翌、15年の夏の陣では、これまでの総構などの堀が埋められたことにより籠城しながらの戦いは出来なくなり、野戦に持ち込む以外、勝機がありませんでした。それでも、諦めずに徳川軍を撃退する戦いもありましたが、最後の乾坤一擲の策が本田忠朝の突撃により作戦が破綻。(忠朝はこの戦いで戦死)各々の判断(現場の将)で家康・秀忠の本陣に目掛けて攻撃を仕掛けます。しかし、2度の本陣突入も叶わず、安居神社で休息中に討ち取られます。その時、三方ヶ原の戦い(VS武田信玄)以降倒されたことの無かった本陣の旗が倒れ、切腹を覚悟するほど追い詰められたといいます。

家康本陣が混乱した原因として、将の世代交代が挙げられます。徳川軍の将の平均年齢が豊臣方と比べても若く、実戦経験や軍を動かす経験が少なかったことから上手く統率が取れずに混乱してしまいました。結果としては、物量で勝る徳川軍が勝利しましたが、兵力差が無かったら家康は戦死していたかもしれません。

 因みに

幸村という名は、元禄期間に小説に幸村と書かれたことによって広められました。

まとめ

戦国時代において人気ランキングに上位にいる幸村。彼の生涯を追っていくうちに、やる!と決めたことはトコトンやる!といった精神やプランA・Bを考え、状況に応じて変更する大切さを学ぶことが出来ました。

 

武田勝頼は、無能か?

参考資料

https://sengoku-his.com/465

https://www.touken-world.jp/tips/8106/

 

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