マリー様 誕生日
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マリー様のモデルは?
マリー様のモデルは言わずもがな、フランス革命時のフランスの王妃だった、マリー・アントワネット。
1755〜1792
生まれ オーストラリア・ウィーン
子供 4人(ルイ17世・マリー・テレーズら)
マリー・アントワネットの直系の子孫は実在しません…。フランス革命のゴタゴタで亡くなる・フランス革命を生き延びて天寿を全うするも子供が授からずにマリー・アントワネットの血は途絶えてしまいました。(直系の血筋は途絶えたものの、親戚は生き残っているので、探していけばアントワネット家は存続しています。)
マリー・アントワネットは、世間一般的いわれている悪女ではなく、元老院・国民と共に
生涯
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わずか37年の生涯を追っていきたいと思います。
マリーは、1755年にオーストリア帝国の11女として生を受けました。その後、フランスのルイ十六世と政略結婚をしました。ルイ十六世の間に1男2女の子供を授かります。
しかし、幸せの日々は長くは続かず、フランス国民が反乱を起こしたのです。
以下の理由があるといわれています。
- アメリカ独立戦争などの対外戦争の敗戦(失敗)。
- 先代・先々代の積極財政を受け継ぎ、国家財政をひっ迫させたこと。
- 当時の気候が寒冷化されてきて食料が不足、インフレが起き人々が不満を溜まっていた。
- 夫であるルイ十六世のリーダーシップ力が低く、問題解決に導くことが出来なかった。→性格的な部分もあるし、部下の意見を聞いて反映させていたので、有事の際にはスピード感のある行政が出来ていなかった。
これが世にいうフランス革命です。革命発生時は、君主制廃止までは考えていなかった節があり、要求も、王政廃止ではなく改革を要求するものでした。マリー・アントワネットらは、軟禁されました。
ですが、亡命しようとパリを脱出したことが原因で国内世論は硬化。保守派の貴族らを除く階層の人々が処刑を主張。結果、ギロチンで処刑されました。皮肉にも、ギロチンの改良を推し進めたのは、夫のルイ十六世でした。
エピソード
- パンがなければお菓子を食べればいいじゃない
この発言は、マリー本人が言ったわけではないみたいです。
マリー・アントワネットが言ったとされる
— 以下略ちゃん™ (@ikaryakuchan) February 20, 2022
「パンがなければお菓子(ケーキ)を食べればいいじゃない」
は、アンチが流したデマ。
本人は言っていない。https://t.co/fy3arncCKK pic.twitter.com/4gIfZmgz2X
元々、浪費家だった性分で、金使いの粗い人だったことから、後世(アンチ)の人々が言ったんじゃないかというので創作された発言だそうです。
- 自らの農園を作る
自分の宮廷内に農園を作り、近親者や親しい友人らを招いて日頃のストレスを発散したり、子供たちの教育の場として有効活用しました。そこには、様々な趣向を散りばめていて彼女の考えを知る建築物です。
また、歴史建築家のジャック・ムーラン氏によると、
「当時流行していた英国式庭園を参考に、農民に対して親しみをもつフランスの伝統的な考え方と、その頃登場した“農業こそが国富である”という経済論の影響から育まれた敬意を織り交ぜて、マリー・アントワネットは村里そのものを作るという独自のアイディアを発揮しました。
パリのビジネスマンがノルマンディーの田舎家で過ごす週末を楽しみにしながら仕事に励む現代にあって、この場所を甦らせたことには大きな意味があると思います」。
https://www.kateigaho.com/travel/68526/
より引用
まとめ
マリー・アントワネットという人物は筆者が調べた限りでは、そこまで悪い印象を持っておらず、革命派や贅沢な生活を送っていた王家を快く思っていない人々のプロパガンダなのではないかと考えています。そして、それなりの教養を身につけていた人物でした。
参考資料
https://www.kateigaho.com/travel/68526/
https://news.mynavi.jp/article/20211106-2164754/
教養としての「フランス史」の読み方 福井憲彦 (著)